白色テロ景美紀念園区【台湾の歴史を学ぶ】

白色テロ景美紀念園区【台湾の歴史を学ぶ】

こんにちは。

てくてく台湾のSHIN(@tekuteku.taiwan)です。

台湾は過去に、政府に対して反対派の人たちを弾圧していた時代がありました。

現在の台湾から想像できない時代があり、その歴史を学ぶことができるのが「白色テロ景美紀念園区」です。

というのも当時、政府に反対していた政治犯たちが投獄され、裁判が行われていたのが「白色テロ景美紀念園区」で、今でも収容所、作業室、裁判所を見学できます。

そんな白色テロ景美紀念園区に行って、政治犯たちがどのような生活を強いられていたのか学んできたので、今回はまとめました。

目次

白色テロ景美紀念園区【台湾の歴史を学ぶ】

白色テロ景美紀念園区

台湾での白色テロ

台湾での白色テロは1947年〜1987年まで行われていました。

当時の政府に反対する人や、反対する可能性がある約14万人が捕まえられ、3000人〜4000人もの人たちが処刑されたと言われています。

その後、1987年に戒厳令が解除されたことにより、不当逮捕や言論の統制がなくなり現在の台湾があります。

白色テロ景美紀念園区とは

白色テロ景美紀念園区

白色テロ景美紀念園区は1968年から政治犯を収容する施設になり、それ以前は軍の学校として使われていました。

2002年に国家暴力侵害人権の重要施設として、白色テロ景美紀念園区が保存されることが決定し、2018年3月15日、正式に人權館として成立。

同年5月18日に「白色テロ景美紀念園区」となりました。

施設の内部には政治犯たちが過ごしたさまざまな施設が今も残っています。

狭く薄暗い雑居房、強制労働を強いられる作業室、家族と唯一会話をすることができた面会室、理不尽な刑を宣告された裁判所など。

白色テロ景美紀念園区では当時の出来事をより多くの人に知ってもらうため、日本語による音声ガイドがあります。

携帯アプリをダウンロードすれば、アプリを使って、日本語で白色テロ景美紀念園区について知ることができます。

僕は3度、施設を訪れていますが、当時の悲惨さを現在でも肌で感じることができる場所です。

白色テロ景美紀念園区を見学

正門

今回は自転車に乗って行きましたが、入り口を入ってたところに駐輪場がありました。

人権記念碑

この建物は人権記念碑で政治犯として捕まえられ、白色テロ景美紀念園区に収容されていた人たちの名前が記載されています。

裁判所

まず軍事法廷で検察官により調査を行われていました。

軍事法廷は今でも静寂な空間で緊張感のある場所でした。

法廷

軍事法廷で調査を終えると、この第一法廷で判決を下されます。

この場所に立つと独特な雰囲気が流れていて、ここで不当な裁判が行われていたと思うと、胸が痛くなります。

収容所

この建物の中に収容所や労働施設があります。

建物全体が静寂な雰囲気に包まれており、当時の環境を現在でも感じることができました。

手錠をつけられた場所

政治犯として逮捕された人が、手錠や足枷をされ、この空間で一時的に収容されていました。

当時使われていた手錠や足枷は展示されています。

面会室

この面会室で家族などの面会者と政治犯たちが、大切な時間を過ごしていました。

現在でもこの電話を使い、対面にいる人と話すことができます。

家族の思いなど考えるとなんとも言えない気持ちになります。

雑居房

この薄暗い雑居房の中に溢れんばかりの政治犯が収容されていたそうです。

お風呂がないのでトイレがあるコンクリートの中で、体を拭いたりして生活していたそうです。

おそらく夏はとてつもない暑さと匂いが充満し、冬は極寒の生活を迫られていたのが目に浮かびます。

食堂

当時の食堂も残されていて、小さな机一つに対して、8人が座りご飯を食べていたそうです。

窮屈すぎます。

当時の食事

当時の食事も見ることができますが、十分な食事が取れず、どれだけ過酷な生活を送っていたのか知ることができます。

労働施設

政治犯たちはこの作業室で、クリーニングの仕事や裁縫の仕事を強いられていました。

白色テロ景美紀念園区に行ってみて「まさか台湾にも場所があったのか」と驚きつつ、色々と考えさせられる経験ができました。

アクセス・営業時間

MRT十四張駅で下車し徒歩10分ほど

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この記事を書いた人

「てくてく台湾」の運営者SHINです。
大学卒業→日本企業に就職→9ヶ月で退職→台湾留学→マッサージ習得→現地のマッサージ店に勤務→日本に帰国。月間11万回読まれるブログ『てくてく台湾』運営中。

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